アート(”art”)の語源

今日も在宅なので、言葉のルーツを追求しています。そういうなかで、時々、「ん?」という、ちょっとした違和感を覚える単語に出会います。

前回 liberal arts について触れました。私たちは、通常、このアート(”art”)という言葉を、美術とか芸術などの意味で使っていますが、ジーニアス英和辞典を見るとー

「技術」が原義

ん? 技術ですか。学校で美術と技術は別科目だったし。芸大の人は美術とか音楽とか演劇とかをやってるのでは。英英辞典にも、「アイデアやフィーリングを表現するためにイマジネーションを使うこと。特に絵画、デッサン、彫刻など」と書いてあるし。

何かすっきりしないので、英語語義語源辞典を見ると、次のようにあります―

ラテン語 ars(= skill; craft)が古フランス語を経て中英語に入った。

何か少し分かったような。スキル、熟練の技、クラフト、職人の技量みたいなイメージですね。優れた芸術作品も、確かな技術がなければ作れない。当然といえば当然ですね。

芸術家というと、髪の毛が爆発したみないな頭をして、えも言われぬインスピレーションに導かれて作品を作り出しているようなイメージを、往々にして持ってしまいがちですが、実際、アートは技術ありきなのですね。納得です。

そう言えば、art から派生した、”artificial” は「人工的な」とか「わざとらしい」の意味ですし、反対に “artless” は「自然のままの」「作りものでない」の意味です。これらの語の “art” の部分には「人の手による技巧を加えた」といった意味合いが込められているようです。

ところで、その “artless” という単語を見ると、ドイツの哲学者が自らの経験をもとに日本の弓道について著した『弓と禅』という本に出てくる、 “artless art” という言葉を思い出します。

“artless art” という言葉自体が、逆説的な表現で、関心を引くのですが、この本に出てくるエピソードをもとに説明すると、要は「弓を射るときに、的に当てようと思うな」ということのようです。

的に当てようと思いが強すぎると却って矢は当たらない。本の主人公であるドイツ人哲学者は悩みます。

ある晩、主人公は Master(弓の師匠)にどうしたら上手く矢を射ることができるかを詰問します。するとMasterは、主人公を夜の弓道場に連れていき、漆黒の闇のなかで2本の矢を放ちます。矢が放たれた後、主人公が見てみると、1本目は的の真ん中を射抜いていました。そして2本目の矢は、1本目の矢を貫いて割いていたのです。

この部分は、読んでいて映像が頭に映し出されるような、美しい文章です。

以前ロンドンに住んでいた頃、アレクサンダーテクニックという、ある種の心身の技法に興味を持ったことがあったのですが、そのテクニックを教えてくれる先生が『弓と禅』を紹介してくれたのです。

このアレクサンダーテクニックも、”end-gaining” しないこと、つまり「結果を求めない」という考え方がコアにあったように思います。スポーツで言うと、例えばテニスでは、極論するとボールをラケット当てようと思わないこと、今この瞬間ラケットを振るという動作に集中することが、良いプレーを生む。

長崎の禅寺で座禅を組んだことがありますが、和尚さんも、「すべての思念を捨てて、今この瞬間に集中しなさい」と言っておられた。

よく「ゾーンに入る」と言いますが、同じような感覚でしょう。平易な言葉で言うと、「我を忘れて没頭する」ということだと思います。

自分の経験で言うと、昔、草野球でまれにホームランを打った時とか、ゴルフでまれにナイスショットした時とか、不思議とバットやクラブを力を込めて振ったという感覚がない。何か知らないうちに当たったけど、どう打ったかはよく分からない感覚ってありませんか。

あるいは、一心に静物をデッサンしていたら、時間を忘れて没頭しまい、気づいたら2時間が過ぎていたこともありました。

何事も、狙いに行ったら良い結果はでない。仕事も、お笑いも、恋愛も、でしょうか(笑)

 


トリビア(”trivia”)と哲学(”philosophy”)

新型コロナウイルスの感染拡大に対する人々の不安が、更に増しています。

この状態はやはり中長期的に続くのか。このウイルスの本当の危険性はどの程度なのか。検査の信頼性はどうなのか。これはウイルスとの戦いなのか、それとも共存なのか。

在宅時間が増えたこともあり、これから将来のことをあれこれ考えることが増えたように思います。

そういう中でも、言葉の語源を追求する癖だけは、変わらないようです。何かの拍子に、「その言葉のもともとの意味って何だろう」と思ってしまい、それがいったん床に入った後であっても、わざわざ起きだして辞書を引かないと気が収まりません。

だいたいがクイズ番組で役立つぐらいのつまらない雑学的知識(トリビア)かもしれませんが。

そのトリビア(”trivia”)の語源ですが、これがなかなか興味深いです。

英語語義語源辞典によると、trivia の語源はラテン語 trivium = tri- three + via wayで、「3本の道が交差する場所」の意。これが転じて「人が集まる大衆的な場所」、さらに中世の大学では7つの liberal arts のうち「下級三学(grammar, rhetoric, logic )」の意となり、「つまらないもの」につながった。

文法・修辞学・論理学が「下級」とは、随分な扱いですよね。

おもしろいので、今度は liberal arts を引いてみると、現在は米国の大学の一般教養科目の意味ですが、中世ヨーロッパの大学における自由七科(文法・論理学・修辞学・算数・幾何・天文・音楽)とあります。

更にwebでいろいろと調べてみると、下級3学に対して、数学・幾何・天文・音楽は上級4学。教養課程である自由七科を修めた後、専門課程である神学・医学・法学に分かれて進学した。また自由七科の上位に位置する学問が、哲学。

哲学の現代的な意味は、一言でいうと、この世界や人生の根本原理を追求する学問といったところだと思います。そのルーツを辿っていくと、哲学は、人間の修めるべき教養の頂点にある学問だったようです。

西周が「哲学」と訳した philosophy の原義について、ジーニアス英和辞典には、「知(sophy)を愛すること(philo)」とありました。

私も、知を愛しながら、この世界で生きるための根本原理を追求していきたいと思います。


マスク(”mask”)の語源

新型コロナウイルス。

厄介ですね。日本中が、世界中が自粛しています。

コロナ(corona)はラテン語で「王冠」(crown)、ウイルス(virus)もラテン語で「毒」(poison)の意味です。

この王冠の形をした毒が、私たちの世界を否応なしに変えつつあります。誰もが頭が混乱し、不安に駆られ、ほとんどの場合ネガティブなスパイラルに陥っていく日々の生活に、なすすべもなく当惑しています。

私もそうです。そして今後、仮に感染の拡大が収束したとしても、私たちの世界は、元に戻ることはなく、大きく変容したものになると、直感的に感じています。

では、大きく変容するかもしれない世界を、どう生きるか。

それについては、家で過ごさざるをえないゴールデンウイークの間に、ゆっくり考えようと思っています。

とりあえず今、世の中を見渡すと、自粛、在宅勤務の大人たち、休校になった子供たち。そして会う人は皆、マスクを着けてますね。

マスクの語源は、英語語義語源辞典によると、アラビア語の maskharah(道化者)となっています。もともとマスクは、道化者がお芝居などの時に身に着けた仮面のことを言ったのでしょうか。

そういえば、外国映画を見ていると、昔のイギリスやヨーロッパの宮殿で仮面舞踏会をやっていて、ピエロのような道化者の仮面を着けた人が出てきたりします。

中世の昔から、マスクは貴族たちが舞踏会の時に身に着けて、ひと時の非日常を楽しむためのものだったのでしょうか。

でもコロナの毒が蔓延する現在、マスクは日常のものになってしまいました。マスクをするのが当たり前となり、マスクをしていないと白い目で見られたりして。

これから来るかもしれない変容した世界では、マスクが人間のデフォルト仕様になるのかもしれません。

初めは衣類を身に着けていなかった人間が、陰部を覆う下着をつけるようになったみたいに、毒が入らないよう、顔面に開いた穴を覆うマスクが必要になるのでしょうか。