ヒューマン(”human”)の意味

前回採り上げたユーモア(”humor”)は「人間味あふれたおかしさ」だったので、ひょっとしてヒューマン(”human”)も同じ語源かな、と思ったのですが、human の語源を英語語義語源辞典を見てみると、次のようにありました。

ラテン語 homos (=man) から派生した humanus が中フランス語 humain(e) を経て中英語に入った。「人間の」(human) と「人間味のある」(humain) に分化したのは18世紀頃から。

語源も そのまま man(人間)ですので、ユーモアの語源である「体液」とは関係なさそうです。

ところで、この human の意味をジーニアス英和辞典で引いてみると、2番目の語義に次のような説明がありました。

(神・動物・機械などと対比して)人間らしい;同情的な、人情(味)のある《◆(神に対して)「欠点のある」、(動物・機械に対して)「思いやりのある」の意を表す;人間味のうちでも特に優しさ・親切さを強調する場合は humain》

なかなか分かりやすく、かつ非常に興味深い解説です。

機械の思いやりの無さというと、例えば目覚まし時計は、こっちがどんだけ眠くても、非情にも定刻に起こしてくれますね。会社のPCは、無味乾燥で見たくもないEメールを、漏らすことなく大量に受信してくれますし。

動物に思いやりがない、という視点はおもしろいですね。私は犬を飼っていますが、動物から飼い主への愛情を感じることはありそうですが。でも確かに、飼い主が疲れていて少し休みたい時でも、遊んで欲しいと甘えてくるような。ご主人様は今お疲れだからそっとしてやろう、なんて考えてないですよね(笑)

でも、人間らしさのコアにあるものとして注目したいのは、最初に書いてある「欠点のある」というところです。

人間は神ではないから、欠点はいくらでもありますよね。人間は完璧ではないです。

でも、完璧なものって、一見すごくいいと思うけど、そのうち飽きたり、忘れてしまったりしませんか。

女でも男でも、完璧な顔の人って、とても美しいとは思いますが、例えば、完璧な美人が主演の映画って意外につまらなくて、むしろ鼻が低かったり、唇が厚かったり、少しクセのある顔の女優が持つ可愛げの方が、ずっと心に残ったりするものです。

企業のPRに使うマスコットもなども、完璧にカワイイだけのものは、消費者の頭のなかをサーっと流れてしまって何も残らず、逆に何か引っかかるトゲのようなもの、例えばちょっといびつで、時に少し気持ち悪かったりした方が、よほど多くの人の興味を引くと言われます。

AI(人工知能)にいろんな人間の欠点を学習させれば、人間らしくなるでしょうか。ときどき変な間違いをするAIを作れるかもしれませんね。でも、どのような欠点を学習させるかは人間が選択することですから、大量に学習させて限りなく人間っぽくはなるかもしれませんが、どこまで行っても人為的(artificial)であって、自然のまま(artless)のものではありません。

自然でわざとらしくない「欠点のある」さまが、人間らしい魅力につながっているのではないでしょうか。

すべての面で無難にまとまった優等生は、つまらない。性格にどこかどうしようもない欠点がある方が、人間的魅力に溢れているのだと思います。


ユーモア(”humor”)の語源

日本中で皆、家に閉じこもる異常な状況ですが、欲求不満溜まってますよね。毎日ニュースで刻々と変化する感染の状況を注視しているのではないでしょうか。

でも、こんな時だからこそ、ストレス解消のために、笑ったり、泣いたりして、感情を発散させることが大事だそうです。ネットでYoutuberの動画を見て笑ったり、海外のヒューマンドラマに感動して涙したり。

職場も感染防止対策のため、出勤者の数が一気に少なくなりガランとしてますが、時々、ユーモアのある上司の話に救われたりしてます。この上司の話には、笑いを狙いに行っていない、彼の人柄がにじみ出るような、自然なおかしみがあるのです。

ジーニアス英和辞典を引くと、humor の意味として、「健全な人がもっている共感者を得るような人間味あふれたおかしさをいう」と書いてあります。

そして、 humor の原義は、「体液」とあります。

ユーモアと体液? 何か意外な語源です。それで、humor の意味の4番目ぐらいまで見てみると、次のように書いてあります。

((古)) 体液《 blood, phlegm, yellow bile, black bile の4液が肉体的・精神的状態を決定すると考えられてた》

phlegm の意味が分からないので、辞書を見ると、痰でした。なんかキタナイ。その次に 、粘液《4体液の1つで粘液的性質の原因》と書いてあります。粘液的性質とは、遅鈍、無情、無感動、冷静、沈着ということらしい。

yellow bile は、黄胆汁《4つの humor の1つ;かんしゃくを引き起すとされた》。black bile は、黒胆汁《4つの humor の1つ;憂うつをひき起す》。

はぁー、なかなか面白い説明です。でも確かに、体液と聞くと、何か生き物の体温の温かみを感じます。ちょっと残酷なイメージですが、潰れると中から熱いものがほとばしり出るような。

体液という温かい湿ったものが、人間らしさのコアであって、ユーモアに繋がったのかなと、勝手に想像しています。そして、この体液が人間の精神的状態、感情に関係しているという昔の人の考え方は、興味深いです。

“Cool head, warm heart” などと言いますが、頭脳と心、思考と情動、あるいは、論理と感情の対比は、なかなか扱いが難しいテーマです。

長いこと事務職としてサラリーマンをやってきましたが、職場は、基本的に理屈、論理の世界だと思います。論理を外すと、仕事はうまく運ばないし、周りも仕事のできない人だと見ます。

しかし、職場の仲間や取引の相手、あるいは社会に対して、上手に感情を表現することも大事です。仲間への親愛の情、ひとつの事を達成したときの喜び、時には社会の不合理に対する怒りなど。

昔から日本の職場は男社会で、男たちは理屈の世界に生きてきたためか、感情を上手に表現するのが下手だと思います。私も、そうです。その点女性は、素直にそして上手に、感情を表現していると感じます。

論理だけの堅苦しい世の中よりも、豊かな感情に彩られた世界の方が魅力的なような。でも、世界が無数の感情に溢れすぎても、やっていられないし。

で、自らの経験を振り返ると、日々の諸事をこなしすには冷静に論理的に考えた方が良さそうなのですが、いざ人生の大きな決断をする時って、意外に論理ではなく、好きか嫌いかといった感情で決めているように思うのです。

どの学校に入るか、どの会社に就職するか、だれと結婚するか、などなど。


アート(”art”)の語源

今日も在宅なので、言葉のルーツを追求しています。そういうなかで、時々、「ん?」という、ちょっとした違和感を覚える単語に出会います。

前回 liberal arts について触れました。私たちは、通常、このアート(”art”)という言葉を、美術とか芸術などの意味で使っていますが、ジーニアス英和辞典を見るとー

「技術」が原義

ん? 技術ですか。学校で美術と技術は別科目だったし。芸大の人は美術とか音楽とか演劇とかをやってるのでは。英英辞典にも、「アイデアやフィーリングを表現するためにイマジネーションを使うこと。特に絵画、デッサン、彫刻など」と書いてあるし。

何かすっきりしないので、英語語義語源辞典を見ると、次のようにあります―

ラテン語 ars(= skill; craft)が古フランス語を経て中英語に入った。

何か少し分かったような。スキル、熟練の技、クラフト、職人の技量みたいなイメージですね。優れた芸術作品も、確かな技術がなければ作れない。当然といえば当然ですね。

芸術家というと、髪の毛が爆発したみないな頭をして、えも言われぬインスピレーションに導かれて作品を作り出しているようなイメージを、往々にして持ってしまいがちですが、実際、アートは技術ありきなのですね。納得です。

そう言えば、art から派生した、”artificial” は「人工的な」とか「わざとらしい」の意味ですし、反対に “artless” は「自然のままの」「作りものでない」の意味です。これらの語の “art” の部分には「人の手による技巧を加えた」といった意味合いが込められているようです。

ところで、その “artless” という単語を見ると、ドイツの哲学者が自らの経験をもとに日本の弓道について著した『弓と禅』という本に出てくる、 “artless art” という言葉を思い出します。

“artless art” という言葉自体が、逆説的な表現で、関心を引くのですが、この本に出てくるエピソードをもとに説明すると、要は「弓を射るときに、的に当てようと思うな」ということのようです。

的に当てようと思いが強すぎると却って矢は当たらない。本の主人公であるドイツ人哲学者は悩みます。

ある晩、主人公は Master(弓の師匠)にどうしたら上手く矢を射ることができるかを詰問します。するとMasterは、主人公を夜の弓道場に連れていき、漆黒の闇のなかで2本の矢を放ちます。矢が放たれた後、主人公が見てみると、1本目は的の真ん中を射抜いていました。そして2本目の矢は、1本目の矢を貫いて割いていたのです。

この部分は、読んでいて映像が頭に映し出されるような、美しい文章です。

以前ロンドンに住んでいた頃、アレクサンダーテクニックという、ある種の心身の技法に興味を持ったことがあったのですが、そのテクニックを教えてくれる先生が『弓と禅』を紹介してくれたのです。

このアレクサンダーテクニックも、”end-gaining” しないこと、つまり「結果を求めない」という考え方がコアにあったように思います。スポーツで言うと、例えばテニスでは、極論するとボールをラケット当てようと思わないこと、今この瞬間ラケットを振るという動作に集中することが、良いプレーを生む。

長崎の禅寺で座禅を組んだことがありますが、和尚さんも、「すべての思念を捨てて、今この瞬間に集中しなさい」と言っておられた。

よく「ゾーンに入る」と言いますが、同じような感覚でしょう。平易な言葉で言うと、「我を忘れて没頭する」ということだと思います。

自分の経験で言うと、昔、草野球でまれにホームランを打った時とか、ゴルフでまれにナイスショットした時とか、不思議とバットやクラブを力を込めて振ったという感覚がない。何か知らないうちに当たったけど、どう打ったかはよく分からない感覚ってありませんか。

あるいは、一心に静物をデッサンしていたら、時間を忘れて没頭しまい、気づいたら2時間が過ぎていたこともありました。

何事も、狙いに行ったら良い結果はでない。仕事も、お笑いも、恋愛も、でしょうか(笑)